眠らない街、ニューヨーク。 5郡のうち、マンハッタンでは毎夜のように摩天楼が常夜灯のように、そこかしこで輝いている。エンパイアステイト、クリスタルタワーを筆頭に、島中のビルディングは競ってその身を何万もの電球で飾り立てる。それが、世間一般に知られているミッドタウンの姿であると同時に、ニューヨークの姿であると言っても差し支えない。 だが、ミッドタウンから外れたところのハーレムやダウンタウンもニューヨークの一部であって、だが誰も知らないだけだ。 そこを棲家とする者は、物好き以外は、夜中の外出はしない。強盗、盗難、レイプ、誘拐―――それが日常と変わる時間。そして、彼らが出歩かないのには、まだ一つの大きな理由がある。 ブラインド越しの眩いピンク色したネオンの輝き。一見すれば廃墟と見間違えるビルにも、人の気配はあった。 切れた電灯がまどろっこしそうにジジ、と低い唸り声を上げる。ソファとオフィステーブル、本棚だけの殺風景な、2階の一角にある部屋には不釣合いな、年季の入ったホールクロックが2回目の鐘を鳴らした。 それはまるで、早朝を告げる教会の鐘の音を彷彿とさせる。そう、彼らにとっては、この時から一日が始まるのだ。 男は懐から手に馴染んだ2丁の拳銃に、銀弾を静かに込めていく。その落ち着いた動作は、神聖な儀式のようでもある。 闇に解けることのない、解けかけた金髪のみつあみを無造作に垂らして、琥珀色の双眸を持つ男は淡々と作業を続ける。精悍な横顔、よれた白いワイシャツと黒のスーツを身にまとった彼を、今だけどうしてまだ少年と見紛う。 全てをつめ終えると、上機嫌にレボルバーを回し、それらを再び懐へと忍ばせた。気だるそうにブーツ底を鳴らしてデスクの上に両足を乗せると、鳴らない電話を睨みつけて、そして暖炉の薪が爆ぜた方へと視線を向ける。 まだ、肌寒い春。北緯に位置するこの国では、四月に雪が降るのも珍しくない。こんなおんぼろビルではストーブも回るか怪しいところ。だから、ここの住人は焚き木で寒さを凌いでいる。ロッキングチェアが、軋む声を上げながら暖炉を前に静かに揺れていた。それに腰掛ける男は、反対に漆黒よりも深い闇の髪と瞳を持っていた。そのまま夜に溶け込んでしまいそうなロングコートを羽織り、月よりも青い肌をしていた。彼の視線の先にあるのは、古びた聖書。角には「"Roy Mustang"」とそれの所有者を顕す名が書かれてある。 何も、彼の手の中の本だけではない。よくよく目を凝らせば、彼の背後にある本棚には、随分と年季の入った聖書が、コレクションとしてずらりと並んでいる。 そんな彼を見つめる先が、ふと闇に翳った。見上げた空では、満月が風に流された雲によって覆い隠されようとしている。 「今夜は随分と静かだな」 漏れた呟きは、みつあみの彼からだった。だが、それにロイと名乗る男は静かに笑った。むっと顔を顰めた彼を横目で見とめて、だが目は月明かりを頼りに文字の羅列を追っていた。 「この街が平和だということさ。いいことじゃないか、エドワード」 エドワードと呼ばれた男、もとい少年は苛立ったように机をがたんと鳴らす。そして、ここぞとばかりにロイに食いかかっていった。 「よくねえよ!大佐、本当に今の状況分かってんのか?」 「・・・だから、ロイと呼んでくれと何度言えば分かる?」 「大佐の方が呼びやすいんだよ。だいたい、気持ち悪くてアンタの名前なんか呼べやしない」 元軍部出身のこの男は、何の因果か引退した今では、街角のはずれでエドワードと同職を生業としている。だが、修道院を出たわけではなく、聖書とロザリオを首からぶら下げただけ、非公式の、所謂もぐりの神父を気取っている。 「ベッドの中では呼んでくれるのに?」 ようやく聖書から顔を上げて、真面目に相手したかと思えばこの台詞。こんな態度で神父と自称するのだから、犬も食えない。エドワードはここで感情に流されれば負けと経験から知っているから、奥歯をかみ締めて怒りをなんとかやり過ごした。 「話を逸らすな。この状況をどう思うんだよ、え?」 「久々に訪れた安息のひと時」 「金欠なんだよ、き・ん・け・つ!」 口角泡を飛ばしながら、この廃ビルの天井が落ちてしまうかと思うくらいの勢いで、相棒に怒鳴りつけるエドワード。勢いに乗った彼は、ここぞとばかりに日頃の鬱憤を怒鳴り散らす。 「だいたいなあ!いっつも女にへらへらしやがって、」 「おや、それは嫉妬かな?」 「違う!ったく、いい女が依頼人だと、毎度のように無料奉仕に走るのはどこのどいつだよ・・・オレたちは慈善事業のために命かけてるんじゃねえんだ!」 「ボランティア、それは母なる無償の愛・・・聖書の中でも説かれている一つのテーマだね」 「そうやって、何かとかこつけては聖書、聖書!おまえのコレクションにどれだけ金かけてると思う?!」 エドワードはロイの背後で鎮座する本棚を指差した。そこには数百年の時を経たもの、初版からハードカバーまで、見る者が見たら、相当なコレクションだろう。これと引き換えにミッドタウンで一等地相当は買える。そこには多少なりとも自覚はあったのか、初めてロイがたじろいだ。 「いやあ、前回はどうしてもルーサーの初版が欲しくて、ね。でもどうだいあのハードカバー、見事じゃないか?」 だが、そこに悪びれなど数ミリグラムも篭っていなかった。 うっとりとしたその眼差しは、女性が宝石を眺めるものと寸分違わなかった。だが、どうしてそこまで聖書にほれ込むのか、エドワードの理解にはほど遠かった。かといって、ロイは熱狂的なクリスチャンでもない。 「オレにとっちゃただの古本だね!」 そこで初めて彼がまともに聖職者ぶった。いつもは穏やかなその顔には、眉間に皺が寄せられて。 「それは神への冒涜というものだよ」 「うっせえ!軍人被れが神父面してんじゃねえ!」 エドワードは耐え切れなくなったように机から足を下ろすと、その身をデスクに乗り上げて、終始取り乱さないロイに掴みかかる。 「そんなに熱くならない。・・・全く、おまえの口調は日ごとに悪さを増していくね」 襟首を掴んだまま、エドワードはまだ何か文句を言おうと口を開きかけたが、だがそれはロイによって阻まれた。男はエドワードの行動に僅か微笑むと、伸び上がって口付けを落としたのだ。 それは、キスと呼ぶには程遠いくらいの、触れる程度で、そしてエドワードはいつものように口を噤んだ。それを知っていて、あえて仕掛けるのがロイという確信犯だった。 「・・・同性愛をカミサマは禁じてるんじゃなかったのかよ」 エドワードの呟きは先ほどの怒鳴り声から想像も出来ないほど潜められていた。爛々と光を帯びていたはずの両目は、今は恥ずかしそうに逸らされて、視線は床を漂っていた。 ロイはにっこりと目を細めた。 「親愛の情だよ」 それだけでキスなんかするやつがあるか―――ふて腐れながらも、少年はぎこちない嬉しさと戸惑いを隠せないでいた。 初心だね、とロイが心の中で微笑ましく思っていたことなど、知る由もなく。 そのとき、空気を切り裂くようなけたたましい電話のベルが鳴った。それに弾かれたようにエドワードはロイから飛びのくと、受話器を取った。 「"Hi, it's Edward...who is it?"」 そして次の瞬間には、仕事の顔に戻る。 夜の世界では凄腕の悪魔払いと噂されるエドワード=エルリックがそこにいた。鋭く、精悍な眼差し、そこに少年のあどけなさは、もうない。 ロイは既に立ち上がって、おなじみの古びたポケット辞書を胸元に忍ばせた。主を無くしたロッキングチェアは、軋みながら静かに揺れ続けていた。 「仕事だぜ」 電話を切るなり、エドワードは振り返らずに告げた。それもロイは分かっているようで、暖炉の薪を消すとブラインドの隙間から差し込む月明かりとネオンの明かりにすっと瞳を眇めた。 「良い機会だ。本当に聖書が古本か、その目で確かめるといい」 「あー、はいはい」 エドワードは生返事をしながら、胸元を確かめるように弄って、そして一丁をデスクの上に弾を込めて放りっ放しだったのを思い出した。 散らばった机の上で鈍く横たわる拳銃。エドワードは手元の銃で狙いをそれに定めて引き金を引いた。 高い銃声とともに、鉄のボディがくるくると宙に弧を描くと、エドワードの手のもとに帰った。 それをスーツの下に忍ばせて、ドアを開けて待つロイににっと笑った。 「でも残念だな。依頼人は女じゃねえよ」 ロイの引きつった顔を背後に想像しながら、エドワードは足取り軽く、事務所とは形容しがたい廃墟から、夜のダウンタウン―闇に棲む者たちの蠢く街へと繰り出した。 >>>後編へ |