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若林が目覚めたとき、最初に目に入ったのは白い白い天井だった。
「あれ…?」
何でこんなところにいるんだっけ?
ぼんやりとそう思って、授業中のことを思い出す。
(あー…シュナイダーのファイヤーショット食らって、気絶したんだっけか。)
普段の自分にはありえない大失態に深い溜息をつくと、余計に気分が落ち込んだ。
シュナイダーへの怒りで、集中力が散漫になっていたことは確かだ。
しかし、ボールに反応できないほどだとは、自分自身思ってもみなかった。
その驕りが、気を失って医務室に運び込まれると言う結果を生み出したのだろう。
情けなさ過ぎて死にそうだ。
のろのろと起き上がって辺りを見回す。
誰もいない。保健医もいないらしい。
運んでくれたのは誰だろうと思い、カルツかな、とも思って、今日の練習の後何か奢ってやろうとまで決めていたのに、この部屋には誰もいない。
しんと静まり返った広い部屋に、ふと、若林は幼い日の我が家を重ねて、頭を振った。
ひとりなんて、慣れてる。今更なんだと言うんだ。
打ち所が悪かったのか、まだ調子が戻ってないらしい。
もう少しここで眠っていこう。
そう思って毛布をかぶり直したところで、ドアを開ける音が聞こえた。
ひどく小さく、弱い音。
寝ているであろう自分に気を使ってのことだろう。
その心配りを思うと、胸があたたかくなる。
きっと保健医だろうと思い込んで起き上がった若林の視界に飛び込んできた人物は、出来れば今、一番顔を合わせたくない相手だった。
あたたまった心が急速に冷えていく。
「……シュナイダー。」
あっちはあっちで若林が起きていることに驚いたらしい。
自分の鞄と若林の鞄を抱えたままの状態で固まってしまっている。
しばらくそのまま、お互い引くことが出来ずに睨み合ってしまった。
「…起きて、いたのか。」
漸くポツリと呟いたのはシュナイダー。
2つの鞄をベッドの脇に並べて置いて、自分は丸い背もたれのない椅子にどことなく緊張した面持ちで腰掛ける。
若林はシュナイダーを見ない。
憮然とした表情のまま、シュナイダーがいるのとは反対側である自分の左斜め下をじっと睨みつけている。
そして訪れる2度目の沈黙。
この時シュナイダーは、心の中で(勘弁してくれ…)と呟いたりしていた。
元々彼も口が達者な方ではないけれど、この沈黙は重すぎる。
「……どうせ。」
永遠に続くかと思われた沈黙は、若林の呟きによって終止符を打つことになった。
怒りと侮蔑を孕んだその声に、彼の怒りの深さを知ることが出来る。
まだ若林の怒りはその欠片さえ解けていないらしい。
自分とは逆の方向に吐き出される若林の声を聞き漏らすまいと、シュナイダーは少し前屈みになった。
今更どうなじられようと、覚悟は出来ている。
やるならバッサリ一思いにやってくれ、そんな心境であった。
身構えているシュナイダーに見向きもせずに、若林は1つ大きく深呼吸をする。
どうやら自分を落ち着かせるためのようだ。
その証拠に、次に彼の口から零れた言葉は、子供に諭すような優しさを称えていた。
「…どうせ忘れてたんだろ、約束。」
そこでようやっとシュナイダーと目を合わせる。
突然、ぱちりと至近距離で目が合って、少なからず彼は動揺した。
しかしそこは皇帝、動揺を表情には出さない。
「忘れてたんじゃない。」
不自然にならない程度に若林から視線を逸らし、抗議の声を上げる。
「守らなければ、同じだ。」
若林はもうシュナイダーから目を逸らさない。
厳しい声と一緒に、責めるような視線を投げつける。
それを受けながら、シュナイダーはこの強い視線が好きだ、と思っていた。
自分を見つめる瞳にはいつも甘さや優しさはなく、しかし、激情を含んでいる。
試合中でも、普段でも。
そんな若林の瞳が、シュナイダーは心底愛しいと思う。
「悪かった。」
ふと口にしたのは謝罪の言葉。
こんなに素直に謝る自分も珍しい。
どれもこれもきっと、愛がなせる業なのだろう。
…自分で思ってちょっと馬鹿らしくなる。
正面切って謝られた若林は、それ以上責めることも出来ずに困惑の表情を浮かべていた。
このまま許しても良いのだろうか。
自分の怒りは謝罪の言葉1つで解けるような、浅いものだったのだろうか。
そんな風に少し俯き気味に、普段サッカー以外のことではあまり使わない頭をフル活動させていたものだから、シュナイダーの顔がゆっくりと近付いてきているのに気付くのが遅れてしまう。
やばい、と思った次の瞬間には、あごを持ち上げられ下唇をぺろりと舐められていた。
ビックリして見つめたシュナイダーの碧い瞳には、意地悪な光が称えられている。
「血が出ていた。」
親指で若林の唇をなぞりながら、飄々とそんなことを言ってのける。
そう言えば噛んで切ったような気もしないでもない…と思って、しかし、だからと言って何故舐められなければいけないのかと思う。
思わず羞恥で頬が紅ばんでいく若林の様を、シュナイダーは面白そうに眺めていた。
滅多に見せないシュナイダーの嬉しそうな表情に、若林はむぅ、と小さく唸る。
「…俺は、怒ってるんだ。」
「俺は謝った。」
不平を口にすれば、もっともだがどこか的外れな答えが返ってくる。
「俺は許してな―――」
不満を口にしようとすれば、その言葉ごとキスで塞がれる。
「…馬鹿らしい。」
「ああ、馬鹿だな。」
そしてもう一度、触れるだけの口付けを。
離れたときに零れたのは、ふわりと漂う笑い声。
「ほーんと、馬ッ鹿みてー」と愉快そうに笑いながら、若林がシュナイダーの胸を拳でトン、と叩くと、シュナイダーはその手首を掴んで、身体ごと引き寄せた。
おずおずと遠慮するように抱きしめて、若林の耳元で、「本当に悪かった」と再度囁く。
すると、若林は可笑しそうにくくく、と笑った。
こんな殊勝な皇帝を、今までに見たことがない。
珍しい姿が見れただけでも良しとするかーと、自分を納得させて、不思議そうな顔をしているシュナイダーをぎゅっと抱きしめ返してやる。
仕方ない。今回だけは許してやろう。
「ところで、何であんなに遅刻してきたんだ?寄り道にしては長ぇよな。」
ふと思い立って、帰り道に若林はシュナイダーに尋ねる。
シュナイダーはばつが悪そうに、もごもごと口の中で言い訳のようなものを語った。
「…前の日眠れなくて、寝坊した…。」
若林に朝から会えるのが嬉しくて、とか乙女チックな理由はさすがに言わなかったが。
シュナイダーの答えに、若林は怪訝そうに眉をしかめた。
「寝坊?お前、寝坊は遅刻の理由にならないって言ってなかったか?」
「寄り道が遅刻のひと理由だと言っただけだ。厳密には寝坊もカウントされる。」
自信満々にそう言えば、若林は心底呆れたような、哀れんだような表情を作った。
多分、八割方呆れている。
「…それじゃおばさん大変だ。」
「もうほとんど放置されてるからな。」
この男わ。
日常だと言って何とも思っていないシュナイダーに頭痛を覚えて、つい、歩みが遅くなる若林にクエスチョンマークを飛ばしながらも、シュナイダーはこっそりと速度調節をする。
普通に歩いていても、背が高い分シュナイダーの方が前に出てしまうのだ。
並んで歩くために、努力するのはいつもシュナイダー。
これに気付くと、若林は烈火のごとく怒り出してしまうけれど。
今回は気付かれなかったようだ。だんだんと縁の下の力持ち行為が得意になっているような気がするのは、シュナイダーの気のせいと言うことにしておく。
隣の人物の苦悩もいざ知らず、若林はちらりとシュナイダーを見ると、特大のため息をついた。
「…直せよ、遅刻癖。」
呟かれた言葉は、ひどく優しかった。
その声色に、どうしても調子に乗りたくなる。
「ワカバヤシが一緒に登校してくれるならな。」
「もーごめんだ。ひとりで勝手に遅刻してろ。」
少しずつ機嫌の悪くなってきている若林に構わず、シュナイダーの機嫌は上向き上昇中。
珍しく彼の口は止まらない。
「そうだ、お前が前日からうちに泊まっていくというのはどうだろう?これなら完璧…ワカバヤシ?」
名案!といった風情に提案したシュナイダーは、横に若林の姿がないのに気がついて、ふと後ろを振り返る。
すると彼は俯いて、わなわなと肩を震わせていた。
すぅっと大きく息を吸い込んで、一言。
「…調子に、乗るなァーッ!!」
晴れやかなドイツの空の下、今日も若林の鉄拳は絶好調だった。
…END…
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