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寒い寒い、ある夜。
闇夜に映える白いコートが、昏い色の生地に包まれた長い脚が。
颯爽と『海馬』邸の扉の中に消えていった。
残された運転手はホッと一つ、安堵の息を暗い闇に残す。
白い息が、名残惜しそうに闇夜に溶けた。
海馬邸の主人は自己の予想よりも五時間ほど遅れて帰宅していた。
それ故か彼の機嫌はSPが萎縮してしまう程に―――悪い。
廊下を歩く足取りも、心なしか速く。
いつものカツカツという小気味よい足音が、彼の怒りと連動して更に家中の者を震撼させた。
メイドも声を掛けることすら出来ずに通り過ぎる雇い主にただ頭を下げるだけ。
角を曲がるときに愛用のジュラルミンケースが当たり「ガツン」と言う音を立てたが、彼は気にせずに突き進む。
広すぎる海馬邸、その中を迷い無く進み私室の前に着いた海馬は、玄関からここまで付き従ってきたSP達にコートをはためかせながら、くるりと向き直った。
そして凛とした声で指示を出す。
「朝、7時に集合だ。遅れた者はその日から職はないものと思え!」
それだけ言うと重い扉をバタン!と閉めてしまった。
SP達は呆然と主人を飲み込んだ扉を見つめていたが、しばらく経つとバラバラとそれぞれの自室に戻っていった。
部屋に入った彼を迎えたのは深い闇。
朝出ていったままの室内に、淡い明かりを灯す。
と、部屋の中心当たりに置かれた高級そうなソファーの背から、明るい髪が覗いているのが見えた。
いたのか、と。
海馬は先程までの般若のような表情をゆっくりと緩ませる。
ことり、と片手に下げていたケースを部屋の隅に置くと、その上に動く度にバサバサと鳴るコートも置いた。
そうしてから、足音を立てないようにソファーに近付く。
そこにいたのは予想した顔と、予想外の顔。
海馬を待っている間に眠ってしまったのだろう。
背もたれに深く身を沈めた城之内と、彼の膝に頭を投げ出してくぅくぅと寝入っているモクバ。
毛布も何も掛けていない為、時々―寒いのだろう―身震いをする。
そんな二人を海馬はいつになく優しい瞳で見つめていた。
あんなに剣呑な光を帯びていた蒼い瞳が、凪いだ海のように緩やかに揺れている。
整いすぎたその容貌には穏やかな笑みすら浮かべて。
ふと。
ある事に気が付いて、城之内の髪を撫でる。
湿った感触に彼が髪を乾かさずにこうして眠ってしまったことが伺い知れた。
まったくもって世話の焼ける犬だ。
心の底でそう思って、海馬は愉しそうに笑った。
すると、その微かに漏れた声か、はたまた髪を梳く感触を感じ取ったのだろうか。
城之内の長い前髪に隠れた両瞳がゆっくりと動いた。
目の前の人物を認識すると、不思議そうに瞬く。
「あれ…?」
「あれ、ではない。こんな所でうたた寝などしているといくら犬の貴様でも風邪をひくぞ。」
優しく髪を梳きながらの毒舌は、全くと言って良い程効果がなかった。
寝惚け眼をクシクシと擦り、城之内は辺りを見回す。
「うんにゃ…なァ、今何時?」
「夜中の2時を回ったところだ。」
海馬の答えに、城之内は顔を顰めた。
「2時……帰ってくんのおっせえぞ海馬……。」
ぶくーっと頬を膨らませて、海馬の帰宅時間の遅さを責める。
海馬が苦笑して、機嫌を取るようにその頬に口付けると、城之内の目の下に朱が差した。
その様子を見届けて、今度は唇に口付けを落とす。
離れていく海馬の唇を憎々しげに見つめて、城之内ははぁ、と溜息を吐いた。
「あ〜ぁ…。結局、俺はお前に勝てねぇって感じだよな…。つまんねーの。」
ぽすん。
またソファに身を預けて、城之内は面白く無さそうにそう呟く。
その震動に、今まで眠っていたモクバが目を覚ました。
「あ……兄サマ?」
むくりと城之内の膝から体を起こして、兄を見つめる。
応えるように海馬が頭を撫でてやると、へへ、と照れ笑いを作った。
「しかしお前達、何故こんな所で眠っていたのだ?」
モクバの頭を撫でる手を止めないまま、海馬がふと思った疑問を口にすると、城之内とモクバが顔を見合わせた。
何を当たり前のことを。
そう訴えかけてくる四つの瞳を、海馬は少々居心地の悪い思いで受け止めた。
海馬がまるで分かっていない様子なので、しゃあねえなぁ、と城之内が口を開く。
「お前の帰りを待っていたに決まってンだろ!な!モクバ!」
明るく言い切った城之内に、モクバも当然だぜぃ!と首をこれでもかと言うほど強く縦に振った。
海馬は呆気に取られて何も言えなくなってしまう。
否―――意外にも嬉しすぎて、二の句が出てこなかったようだ。
珍しく固まってしまった海馬に、城之内がニヤリと笑ってみせる。
「ほらほら!帰ってきたら何て言うんだ?海馬!」
「そうそう!兄サマ、挨拶はきちんとしなさいっていつも俺に言うぜぃ!」
キラキラと瞳を輝かせる二人に負けて、海馬はふぅと溜息を吐く。
そうして微苦笑を称えて、短く言葉を発した。
「―――ただいま。」
それに城之内とモクバは極上の微笑みで応える。
「「おっかえりぃ!!」」
・END・
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