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――― まるで 恋をしているようだ。
呟かれた言葉に息が止まる。いや、心臓すらその機能を停止してしまった。
思わず零してしまった、といった感じのまま、複雑そうに、それでいて唖然とした表情でテーブルを挟んで向かい合っている幼馴染に、俺までも呆然とする。「馬鹿を言え」と眉間に皺を寄せることも、沈黙で嘲笑うことも出来なかった。
ただ、ぐらりと世界が揺れた。
じわりじわりと目の奥から気持ちの悪い感覚が滲み出して、ついには頭痛を引き起こす。
「恋を、」
口の端から落としてしまったのは、先程カルツが言った言葉の鸚鵡返し。
視界同様ぐるぐると回る思考では何も考えられない。
……痛い。
頭が。胸が。身体の隅々が。嫌な汗が一気に噴出す感覚。
何故、こんなに動揺しているのだろう。
結局、答えを得られずに。
今も混沌とした気持ちを抱えて、あろうことか元凶とふたりきりで部屋にいる。
補習を免れるための勉強会。これでもう何度目だろうか。
若林の頭は元々は悪くないようだが、いまいちまだドイツ語を理解しきれていない部分があり、試験となるといつもギリギリの点数を取っていた。問題の内容が分からないのだからどうしようもない。
今まではそんなに気にせずにいたらしいが(落第しなければいい、程度の認識)、今回は赤点をとると休み中に補習が待っているというので必死のようだ。サッカーに何のしがらみもなく取り組みたい若林は、その補習をどうしても避けたいと言う。
1週間前にカルツに頼んだがいつもの調子でかわされてしまったので、しぶしぶながら俺に頼んだと言うわけだ。
俺と若林は、特に仲の良い友達と言うわけでもない。
出会いが強烈過ぎたせいもあるが、お互いがお互いを妙に意識してしまって、まだ間合いを測りかねている。
話はする。けれど、それは大抵カルツを挟んで。
サッカーに関しては居残って練習もする。会話は一切ないけれど。
友達、と位置付けて良いのかすらも分からない。
チームメイトで、ライバル。
今のところそれだけの存在だ。
「シュナイダー、ここなんだけど…。」
ぼんやりしていると、正面に座った若林が教科書の一部を指で指し示す。
分からない、というからヒントだけ出す。
すると眉間に皺を寄せて何か考えている仕草を見せた。
しばらくして恐る恐ると、自分が出した答えを口にする若林に、正解だ、と短く返せば、ホッと安堵の笑みが返ってくる。
…そんなことを繰り返し、繰り返し。
時間だけがゆっくりと過ぎていくのだ。
本音を言えば、こんな役目を引き受けるつもりはなかった。
面倒臭いし、俺にとってデメリットばかりで何のメリットもない。
合理的と言うか…冷めてるな、とカルツに笑われたが、それはお前の方だろうと返すとひょいっと肩を竦めて見せた。
否定はしない、と言うわけだ。自分が若林の頼みを拒絶したせいもあって、強く出れないのかもしれない。
俺もカルツ同様、初めは断るつもりでいた。
しかし、今現在、こうして俺は若林の一時的な家庭教師と言う立場にいる。
……何故?
“試験勉強を手伝って欲しい。”
練習後。
誰もいないロッカールーム。
汗の匂い。
慣れないドイツ語。
憮然とした態度。
屈辱の眼差し。
“人に頼み事をするにしては、随分な態度じゃないか。”
不機嫌にそう言い返せば、眉間に皺を寄せて睨んでくる。
もういい、と吐き捨てて踵を返す若林の腕を掴んでしまったのは何故なのか―――それは、今でも分からない。
「出来た!」
喜々とした声に、思考の海から引き上げられる。
どうやら本日分の課題が終わったらしい。
相当辛かったのか、無意識に浮かべる笑顔はいつものよりも幾分幼かった。
眺めていると、こちらを向いた若林と目が合う。
「……飲みモンでも持ってくる。」
しっかりと合わさった視線を気まずそうに外して、キッチンへ消える若林。
その背中を見送ると、自然に深い溜息が出た。
知らぬ間に緊張していたとでも言うのか。今のは疑う余地もなく、安堵の吐息だ。
訳が分からない。
「あれ、見上さん今日は早いんですね。」
頭を抱えて俯いたところに、廊下から若林のそんな声が聞こえてきた。
こちらの部屋から玄関の様子は窺えないが、先ほどの若林の台詞から推測するに、どうやら見上が帰ってきたようだ。
帰りはいつも遅い、と言っていたが、今日は仕事が早く上がったのだろうか。
「ああ、ただいま……と言いたいところだがな。忘れ物を取りに来ただけなんだ。」
抑えた大人の声は見上のものだろう。
至極残念そうに言う声色に、少しだけ、自分の父親が重なる。
……似ても似つかないのに。
「そうなんですか…。じゃ、すぐ出るんですね。いってらっしゃい。」
声の調子から知れる明らかに残念がっている若林の様子に、歳相応の対応だと妙に安心する。
…だが、送り出す台詞に笑顔を添え、見事に本心を隠したのにはやっぱり、と舌打ちをした。
俺の知っている若林はひどく傲慢だ。
いつでも敵と対峙する様な瞳を隠そうともせず、アクションも大袈裟なくらいに大きく、言葉遣いも乱暴。
キレると、時々母国語が混ざる。
思い通りにならないと憤慨し、自分が一番正しいと思い込んでいる。
衝突を恐れないというのは良いのか悪いのか。
噂に聞いていた日本人の特性とは全く正反対の反応を返してくる相手に、チームメイトはまず奇異の目を向けた。
それが好意に変わっていくのに、さほど時間は掛からなかったように思う。
部分的に例外はどこにでもいるもので、若林を未だ認められずつっかかっていく輩も少なくはないが、味方はそれ以上に多くなった。
比較的短期間でチームに馴染んだ若林に、やはりゴールキーパーと言うポジションにいるだけのことはあると、感心した。
あれだけ「俺様」な性格をしているくせに、人の信頼を得るのが上手い。それはそれで面白いと思った。
しかし、ふとした瞬間にその認識は覆される。
チームメイトと他愛ない話で笑っているとき、外から若林を観察した。
中にいるときに感じた微かな違和感の正体を知りたいと思ったからだ。
そして、愕然とする。
馴染んでいる、なんてどうして思ったのだろう。
彼は未だに孤独で、誰にも警戒を解いていない。
普段それを感じさせない得体の知れない本心の深さが、気味が悪かった。
隠された本心は、どんなに複雑で、難解で、昏いのか知れない。
厄介な相手と知り合ってしまった。正直、そんな風に思った。
それが、この煩わしい想いの発端だったのかもしれない。
「待たせたな、紅茶でいいだろ?」
紅茶の乗ったトレイを運んでくる若林にハッと顔を上げて、とりあえず頷く。
若林の家で出される紅茶は、いつも香りが違っていた。
ダージリン。アッサム。オレンジペコー。アールグレイ。セイロン。
1度、紅茶の種類を色々と説明されたが、耳を素通りしてしまったので全く覚えていない。
味の違いさえよく分かっていないのだから、名前を教えられても役に立たない。
ただ、どの紅茶も家で煎れるのより、はるかに美味かった。
ほわん、と漂う甘い香りに二人きりの緊張感が緩和されるような気がして、俺はこのティータイムをこっそりと楽しみにしていたりする。
…それにしても、何に緊張すると言うのだろう。
元々緊張とは縁のない性格だ。
どんなに大きい大会の決勝だろうと、今まで緊張で固まったことなど一度もない。
お前の心臓には毛が生えている、それも剛毛だ、などとカルツに訳の分からないことを言われたが、アイツこそ緊張するなんてことはないように思える。
そして若林もやってきた当初から緊張などはしていなかった。
緊張する暇もなかった、と言うのが本当のところなのかもしれない。
同年代の異国人に、周囲の反応は冷ややかで激しかった。
生傷を常に作っている若林がいつ逃げて日本へ帰るのか、という面白半分本気半分の賭けがチーム内で行われていたことも知っている。
俺も、今は強がっていてもその内尻尾を巻いて逃げ帰るものだと、それがいつになるかなんて考えるのも面倒臭い、と思っていた。
結果が一緒ならば、過程などどうでもいい。
けれど若林はまだドイツにいる。
相変わらず生傷は絶えない。
それが喧嘩によるものなのか、練習によるものなのかは知れないが、帰らないでここにいるという事実が意外でならなかった。
さっさと日本に帰国すれば、こうして試験勉強で悩むこともないだろうに。
目の前の相手をこっそりと見つめる。
サッカーではあんなに乱暴な仕草をしているくせに、普段の生活で見せる仕草はどこか洗練されていて優雅にさえ見えた。
金持ちだと聞いたことがある。
でなければ、極東の地域からドイツへサッカー留学なんてできるはずがない、とやっかみと妬みで作られた噂話を耳にすることは多かった。
そのせいなのだろうか。
黙っていれば、それなりに見える。
「…何だよ。」
いつの間にか不躾な視線を送ってしまっていたらしい。
視線に敏感な若林は、嫌そうに顔を歪めて俺を睨んでくる。
「別に。」
目を伏せてそれだけ答えると、若林の声が間髪入れずに降って来た。
「悪かったな。」
「無理矢理こんな役目押し付けて。」
「俺はすごく助かったけど、お前には不愉快なだけだったもんな。」
「お前のおかげで何とか補習は免れそうだし…。今日で終わりにしようぜ。」
微苦笑を称えて。
その視線は真っ直ぐ俺を見ているようで、けれど、通り過ぎているのが明らかだった。
言いようのない怒りが身体の奥から湧いてくる。
気付けばテーブル越しに若林の胸倉を掴んでいた。
「お前は、」
何が起こったのかと目を見開いている無防備な顔に苛つく。
あまりに突然のことに抵抗する気がないのか。
それとも、こちらの出方を窺っているだけなのか。
黒い瞳がそのどちらも浮かべていないのが、また癪に障った。
「いつまでそうやって」
ぐっと眉間に皺のよる感覚。
酷い顔だろう俺の表情を見て、若林も眉をひそめる。
今までで一番近い距離で見た顔は思っていたよりずっと幼くて、イメージとのギャップに眩暈がした。
「……シュナイダー?」
困惑色を乗せた若林の声は、微かに怒りも含んでいて。
理不尽な仕打ちに、憤っているのかもしれない。
けれど、離す気はなかった。
「隠していればばれないとでも思っているのか。自分が我慢すれば何でも丸く収まると、思い上がっているのか。」
自分で発した声が痛々しくて、また、表情をしかめる。
しかし、若林の顔は俺以上に歪んでいた。
驚愕と、憤怒と―――何故か少しの悲哀。
「な、に、言って…。」
動揺が如実に現れた、俺のものとは違い色素が濃い黒水晶のような瞳を見つめると、不自然に逸らされる。
触れてくれるな、と警告を発しているようだ。
引き下がってなどやらない。
視線で強請る。
答えを聞かせろと。
「……らしくないぜ、シュナイダー。」
視線を逸らしたまま、若林はポツリと呟く。
酷く不服そうに。
「お前は、他人の事なんか興味がなくて、面倒臭いと関わりを避けるような奴だろう?こんなところまで関わってくるような奴じゃない。」
…そうだ。
俺は自分と家族さえ良ければ、他の事なんかどうでも良い。
誰が泣こうが、喚こうが、自分達に関係ないと分かればすぐに切り捨てる。
感情には敏い。だから、人の本心が望まざるとも分かってしまったりもした。
けれど、それこそ俺には関係のないことだからと見て見ぬ振りをしてきたはずだ。
なのに。
何故、若林にはこんなに、こころが乱されてたまらないのだろう。
これでは、まるで。
まるで。
――― 恋をしているみたいではないか。
…END…
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